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【第四回】起業を目指す 小松さん【La Vitaプロジェクト】


小松 明美

 一九五三年高知生まれ。一九七五年三月京都産業大学経済学部卒業、同年四月から本学の事務職員として勤務。就職部(現進路・就職支援センター)十年、外国語学部に一年、学生部に五年 、そして就職部に再度配属され約十八年勤務した後、課長補佐の立場で退職。その後、恩師の私設助手として田村ゼミの運営に約七年携わり、二〇〇二年に京都産業大学女子寮である葵寮ができると再度嘱託職員として二〇一八年三月まで勤務し、六十五才で退職する。現在は起業を目指して資格取得中。

 


 

自分を変える生き方

私たちが初めて小松さんに会った時に受けた印象は力強そうな人だという印象だった。

見た目はサングラスをかけ、習いたてだというフランス語で挨拶をしていた。

そんな小松さんだが、昔はとてもシャイで人見知りだった。

中学の時、どうにかして自分を変えたいと思い、知り合いのいない高校へと進学することを決めた。

「高校では自分を百八十度変え、生徒会副会長になりました。千人を目の前にして立会演説を行ったのはとても勇気がいりました。」そう言って初めの一歩を教えてくれた。

大学にはいっても自分で動かないといけない、待っていてはいけない、自分ですべて動かしていくという気持ちでいた。

今でも根本は人見知りだから治らないけど、今まで乗り越え経験したことがあるから平気でいられると話してくれた。

 

 

ライフとワーク

 事務員となったのちに、結婚そして出産を経験された小松さん。結婚しても働きたいと考えていたため、それを許してくれる人と結婚したという。

  産後はわずか八週間で仕事に復帰する。残業はしなかったが、その分人の倍働こうと努力した。家では、復帰後も夫に迷惑をかけたくないと家事は自身で行い、旦那さんの弁当も必ずつくっていた。子どもは保育園に入れたくなかったため、周りの人と協力し育てていたそうだ。このときの睡眠時間は、実に三時間ほどであった。

「体力がなかったら仕事と子育ての両立は絶対できない。大変だけど、やると決めたからには頑張った」小松さんはそう語る。

 就職部で課長補佐をしておられたとき、お子さんが不治の病に罹ってしまう。介護の制度はあったが取ることができなかった。当時は取得者が少ない上に、そもそもそのことを考える余裕がなかったからだ。小松さんは、一度職を離れ、家庭に専念することにした。それまで仕事に家事にとパワフルにこなしてこられた彼女だが、このときにはもっと家のことを、子どものことをすべきだったのではないか、と思ってしまったそうだ。

  しかし、小松さんはただ落ち込んでいただけではなかった。仕事を辞めゆとりのできた彼女は、今まで大変だからとおいていたカウンセリングの勉強を始めたのだ。カウンセリングの知識は、後に恩師の助手としてゼミの運営に携わったとき、葵寮の寮母として働くときにも活きたという。

  転んでもただでは起きない小松さん。彼女はつらいときにも、何かを得ようと努力されてきた。

 

 

やりたいこと

私たちが真剣にインタビューする様子に、何度も「私なんかに話を聞いても何にも凄くないよ」と謙遜する小松さん。そんな小松さんだが、今年3月に寮母の仕事を辞め、現在はフランス語と論語の勉強をされている。英語は全くの苦手だが、フランス語はなぜかとても好きになれるのだそう。インタビュー中も、時折フランス語を交えながら学ぶ楽しさを話してくださった。

また、来年には論語教室を開きたいともおっしゃった。「人のために何かしたい」という気持ちが強い小松さんは、人に何かを教える事が昔から変わらず好きなのだろう。

 今挑戦していることを生き生きと語る小松さんには、年齢を感じさせないパワフルさがあり、私たちから見ると十分「凄い人」である。人のために何かをすることが喜びとなる、そんな人に私たちもなりたいと思った。